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「“日本”という国に教育や何かをしてもらったことに対する“お礼奉公”はもう十分すませたような気がするんです。」

中略

“お礼奉公”といういい方を聞いて、幸長の頬に微笑が浮かんだ。
そういう考え方がいかにも戦後の青年だ。

中略

日本人として生まれながら、「国」だの「民族」だの「国家」だのに、暗い、どろどろとした、宿命的な絆など感じていない。(中略)
「借り」を返しさえすれば、いつでも自由な関係に入れるものとしてとらえられているのだ

中略

物質や権力に対する執着もなく、
生活に対する欲望も淡白で、
さらりとした感じの青年たちは、
いわば戦後日本の生み出した傑作といえるだろう。

中略

彼らは、自分たちを、「日本の中でしか生きていけない」と考えてはいない。
地球上、どこへ行っても自分は生きて行ける、と思っている。

中略

それは、新しいタイプの、いわば「教養のある原始人」とも言うべき人間かもしれない。


複雑な地質学や政治の立場、経済の立場、外交、あらゆる方向から作品世界全体を観ながらも、それはSF作品としてこの物語にリアリティを与える役目に過ぎない。
根っこの部分で貫かれている作者の描きたいものがときどきはっきりと浮かび上がる。


「すべて、“大いなるもの”に立ちむかいつつある人々に」
(上巻 巻頭 作者より)



読めば読むほど映画観る気がうせていく。

柴咲コウが出る以上、もはやアレは小松左京の「日本沈没」ではない。
安部玲子役って原作ほとんど出番ないし。
どうせ柴咲ともなれば出番増やすに決まってるし。
相手役が草薙(小野寺)だし。
ってことはタイタニックと勘違いするかのような話になりかねないし。

ほれたはれたの物語じゃないんだよね・・・・

多分、摩耶子にしても玲子にしても第二部で出番がおおくなるのでは?
そのための配置だったのでは?
と思うのです。
半狂乱だった摩耶子がエピローグで女の強さを見せてくる。
“私はひとりになってもいきていく”
第二部を暗示したものかと。

かきかけのまま作者が亡くなった第二部。
作者が本当に書きたかったのではといわれる第二部。
日本人は流浪の民となり、いかにして生きてゆくのか。
おそらく初めてナショナリズムの意味を理解するだろう。
日本人が日本人であるためには?

読んでみるか・・・・
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「何故山に登るのか」
「そこに山があるからだ。」


年数かけて培った漁師としての技術と
エネルギーすべてをかけて
釣った大物は
陸にたどりつくまえにサメにくわれてしまった。


大きなものを得るということは、
いつかそれを失うということ。

どんな苦労も、功績も
後には何も残らない。

人生は、
得て失ってやがて終わっていく。

だからってむなしいわけじゃない。
得て、失う、
それでまた、人間はエネルギーがわいてくる。

体力や身体的なものが変わっても
きっと人間の持つエネルギーはいくつになってもかわらない。
さよならをするころになると
その人が私の中でかけがえのない一人になっていたことに気がつく。
だいたいいっつもそんな感じ。

毎度のことながら、どうしてもっと早く気がつかなかったんだろうと思う。

さよならとか終わりとか、
いつかはくることだって意識していたところで
何がかわるわけでもないのに。
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