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この現実感のなさとか閉塞感とか、孤独とか、そういうのを救済できるのは愛だと唱えた本でした。

ここは見世物の世界 何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる”

この言葉、冒頭に出てきたときは意味がわからなかったけれど、最後にでてきた瞬間、物語がすべて一本の糸でつながったと思った。リトル・ピープルは「みんな」、マザは「本体」、ドウタは「虚像」。空気さなぎは勝手に誰かがつむぎだした空虚な創造物のことだと思う。だけどその中にドウタ(虚像)が生まれて実際にいる人のように動き出す。

どれも今の世の中に実際に存在しているものたちだ。そしてそれらは現実感のなさを私たちに与えている。

世論調査ってのを私は受けたことがない。電話によるとかってついてるけどそんな電話受け取ったことない。でもなんだかテレビではいろいろな人が意見を言っている。アンケートがとられなんだかどうやら首相への支持率が下がっていることを知らされる。自分が全く関与していない。なのにいつの間にか世論ってやつが勝手に決まってる。
少し前になるけれど、朝青龍が自宅マンションに閉じこもったまま出てこなくなった。たかだか一介の相撲取りがマンションから出てこなくて何がいけないのか、サッカーしたぐらい何がいけないのか、よくわからないが知らない間に物事の良し悪しが決まっている。
決めたのはリトル・ピープルだ。民主主義の多数派ってやつなのかもしれない。リトル・ピープルという名はジョージ・オーウェルの「1984」に出てくる独裁者「ビッグブラザー」の対義するものとしてつけられたそうだ。ジョージ・オーウェルの小説当時、世界を支配していたのは独裁者、現在は民主主義の名の下、リトル・ピープルなるつかみ所のないものがこの世界を支配している。

リトル・ピープルは空気さなぎをつくる。それはたまごのようにゼロから命を吹き込んだものではない。ぐるぐると糸をつむいでいつのまにか出来上がっていく虚像。新聞、テレビ、ネットなど、あふれかえる情報を見ていく中で実際にあったことも話したこともないにもかかわらず、朝青龍=悪童の虚像を私たちはいつの間にか作っていた。日本=覇気がない虚像とかってのも当然あって、そういうマイナスなイメージが流布されていて、それが閉塞感につながっている。

この殺伐とした世界から抜け出すのに必要なのは「愛」なんだと。信じたらすべてが本物になるんだと。「愛」さえあればどんな世界でも生きていけるってそんなこたえのお話でした。
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主人公二人を一章ごとに互い違いで立場を変えてストーリーを進めていく手法はアーシュラ・ル・グゥイン(ゲド戦記の作者)の小説の特徴。村上春樹はグゥインの影響を認めているし、1Q84はグゥインのこの手法がなければ絶対におもしろくならなかったはずだ。もちろん手法だけじゃない。内容そのものにもグゥインの影響がみられる。だけどこれは村上春樹の世界だ。

村上春樹が「愛が人を救う」といえばなんかハリウッドに言われるより納得してしまう。納得するだけの裏付けが綿密に書かれているからだ。

村上春樹が小説家として、文章のプロとしてどういうことを具体的にしているのか、気にしているのかということが天吾を通して書かれているなと終始感じた。現実に置き換えれば、「空気さなぎ」はまさにこの「1Q84」という小説そのものだ。脳死的な状況に投げ込んだ問いかけなのだ。今みている現実は本当にそうなのか。何か大事なことを見落としているもしくは、見えないふりをしていはしないか?と。

「宗教とは真実よりはむしろ美しい仮説を提供するものなのだ」

それはまさしくパンドラの箱なのだ。パンドラの箱だの知恵の実だの、昔の人は良いところに気がついている。無知のまま死ぬことはある意味、一番幸せなのだ。知恵の実を食べてしまったために不毛の地を生きることになったアダムとイヴ。蓋をあけたらありとあらゆる災いが出てきてしまったパンドラの箱。人の好奇心は人に不幸をもたらすが、「無知でよいのか?」と村上春樹は問いかける。パンドラの箱の底から最後に出てきたのは希望である。昔の人はうまいこと考えたもんだ。

どれだけ厳しい現実を突きつけられても、自分の中心がある人は絶対に強いとも小説は語っているとも思う。青豆にしろ天吾にしろ、それが愛だったのだと極限の状態になったときに気がつくのだ。

「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛」
(中略)
「とうやらあなたは宗教を必要としないみたいだ」
(中略)
「なぜなら、あなたのそういうあり方自体が、言うなれば宗教そのものだからだよ」




(以上、とりあえず。長くなるので後日加筆予定)
 

あっさり読み終わり。
軽い内容なのでらくらく読める。


主人公が心の中で物事にネームをつけていく。このへんの思いつき、引っ張り方がやっぱし元コピーライターなんだなという感じ。
「資本主義の不思議」とか。ぜんぜん主人公のバックグラウンドらしくないのだけど、このへんの思考が軽快でおもしろい。「えっ?!」と思うようなネーミングが時々あるあたりに・・・あぁ、広告業界出身なのね・・・という印象が強くなる。
司馬遼太郎がジャーナリスト風小説ならこっちはコピーライター風。
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