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日本の幸運は坂本竜馬という人物が己の欲するところを
よく理解していたところにあると思う。

権力が欲しい
お金が欲しい

よくお金や権力が俗世間的でそれを欲しない人は俗世間から離れた人といわれるが私はそうは思わない。お金とか権力とかってのは結局は手段でしかないのだから。
生活するのにお金が必要でより多くのお金を稼ぐために生活をこわしてしまったら本末転倒だ。問題は何のために稼ぐか・・・だ。お金は自分が「こうしたい」と思うこところに対する手段でしかない。「お金が目当て」というのは意味不明なのである。
よく、たくさんのお金をもって入ればお金に悩まされることはないと思っている人がいるが、どんなにたくさんのお金を持っていても計算しなくなると破産するものだ。確かに、お金の計算は生活のなかで煩わしい部分かもしれないが、お金持ちがお金について考えてないかと思ったら大間違いである。むしろ逆。貧乏人よりお金にとりつかれている人間は多い。

坂本竜馬は海で生きたかった。
それが最後まで一貫していたのだ。
自分のやりたいことがはっきりしていて、それをするために世の中と自分をすりあわせていったのだ。
これのどこが無欲だって?
超自分勝手&貪欲じゃないですか。
お金や権力という「手段」に彼は執着できなかったのだ。

大久保・西郷なんかはこういうところまだちょっとうといカンジで彼が維新後の実権や役職を望まないことに驚く。物心ついたときから頭の片隅にあった「お金」というものの本質を覆せる人間は少ない。というより、お金以上に大事なものを見つけることがほとんどの人はできない。別にお金がいらないわけではない。手段として考えることができるかの差である。

手段と目的の境界線がはっきりしている人をはっきりしてない人が見ると「俗世間離れしてるなぁ」と思うわけである。

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やっと読み終えた。
正直、途中でつまらなくなって読むのをやめようかと思ったけれど、薩長同盟あたりから面白くなりだして最後は一気。
あとがきで竜馬が有名になった経緯を書いているが、何気にこの小説こそ、坂本竜馬を有名にしたきっかけのような気が・・・・。自分の好きなものを好きなだけ探求し、その魅力を世間にあますことなくアピールし、世間もそれを受け入れた。物書きとしてこれ以上の成功があろうか。


●無血革命
実は私は日本史というものをほとんど勉強していない。
世界史は普通の高校生よりかなり真面目に勉強したし、欧米の歴史物の映画のために資料を読み込んでいたので教科書+αの知識もあるほうだと思うし、大体の流れはつかんでいる。
小学校でも中学校でも日本史が嫌いで勉強できなかった。普通はカタカナの名前を覚えることが苦手らしいが、子供の頃から映画(洋画に限る)漬けで育った私は日本人の名前、漢字のほうが覚えにくい。何より、日本史には興味を持つきっかけがなかった。

両親はどちらかといえば左。祖母はその時代に育った人間なのでもちろん右寄りといってよい。双方さほど極端ではないけれど、かこまれて育った私は日本史に対して良い印象をまったく受けていなかった。

祖母から聞く戦争の話。大人たちから聞く、戦争の話。
「日本は負けてよかった」とか「政府がバカだった」とか、そんな印象ばかり。あまり楽しい話ではない。

対し左側。
「日本は失敗した」、「アメリカの犬」「くだらない国」。そんなことばっかり聞かされた気がする。

何より、この国には魅力的な女傑がいなかったから、なおさら興味の外になってしまった。
イギリスにはエリザベスやヴィクトリア、オーストリアにはマリア・テレジア、ロシアのエカテリーナ・・・・フランスの聖女(軍人?)ジャンヌ・ダルク、エジプトのクレオパトラ、ネフェルティティ、中国の西太后、世界史では女が活躍していてその功績は男にも勝る。明らかにただものではなさそうなあたりが面白い。

だけど、世界史は、勉強すればするほどに、その血なまぐささが肌で感じられるようになった。よく、「歴史の教科書は行間をよめ」とかいう人がいるけれど、それは血なまぐさすぎて高校生のある時期完全に失望していた。
今はもう、歴史や世界のリーダーに対して妙な理想の持ち方をしていないからそういう感じ方をしなくなったけれど。

日本には神風が吹いた。そうとしか考えられないような奇跡がこの国にはおきたのだ。

日本は無血革命を遂げた世界でも稀な国。
革命がもし、欧米のそれのように混乱のなすがままに起こっていたら、日本はきっと西洋各国の思うツボだった。革命成功しようとも、無血でなければ同じように国力がなくなり統一国家としての強さもなく、分断され西洋の王に統治され植民地となっていただろう。薩長同盟、大政奉還・・・・そのどの段階の綱渡りですべっていても日本は植民地にされていたのである。
日本は西洋に植民地化されなかった数少ないアジアの一国である。その理由を私は四方を海に囲まれているからだと安易に思っていたが、よくよく思えばフィリピンやインドネシア、フィジーなんかも海にかこまれている。決してその地理的条件だけが原因ではないはずなのだ。

「神風」というと右翼的な印象が強く、現実的ではないし、私自身、信じる神様などいないが、坂本竜馬というまれな才能にめぐまれた人間があの時代、あの場所に生まれ、ことを為せた奇跡を思うと、神風が吹いたとしか思えないのだ。
●エネルギーの矛先
司馬遼太郎の経験からなのか、それともこれはやはり古今東西一般的にそういうものなのかもしれないが、若いっていうことはエネルギーがありあまってるってことだ。あふれだすエネルギーを制御しきれないのも若さ故。

作品には幕末に勤王派活動をする若者が何人も出てくるが、思想や自分のしたいことをはっきりと描き出している竜馬や中岡、高杉、桂、西郷など革命の中心人物たちはともかく、うやむやなまま、自分のよりどころがほしいために何かを信じずにはいられない盲目的な人間が多数登場する。そういった輩は礎の一部として死んでいく。歴史にその名を残すことなく、時がたてば誰かの心からも消えてしまうような危うい存在。

竜馬の姉、乙女の手紙に対して司馬遼太郎は「自家中毒」という言葉で彼女の状況を説明した。私には妙にこの言葉がしっくりきた。このひとことで色々なことに説明がつく気がしたから。

乙女は男勝りで才能に恵まれた教養人だったが、ひきかえに女仕事は苦手だった。この、女性が家にいる以外選択の余地のない時代に、彼女の才能は家の中では使い物にならなかったのだ。しかし、彼女には男勝りのエネルギーがある。その能力を使わずにいるため、ストレスになっているのだという分析をしていた。要は暇なのである。

ふっ・・・・といろいろなことが思い浮かんだ。

あぁ、これって今の時代と同じだなと。
幕末の時代、エネルギーの矛先は革命だった。若者は明確な思想を持つことが良しとされ理想だった。“思想がない”ことが“たしなみのない”ことだったので各人、口先だけでも何かもっていなければならない雰囲気があった。
これは今の時代もかわらない。“自分があること”がアイデンティティの不安定な若者の理想像なのである。無理に安定させようとしたり安定しているふりをする。さも、自分の道が正しく、意義あることのようにふるまう。そうすることで何とか表現しようのない不安定感から逃げようとする。
その上エネルギーばかりありあまっているので大して意義がなくともエネルギー発散のためにがむしゃらに駆け出さずにはいられない。がむしゃらならまだよい、下手に悩めば自家中毒をおこすから。

ふっとニートのことを考えた。

むかしフランス王妃マリー・アントワネットは言った。
「私は退屈することが怖いのです」
と。
彼女は浪費家で賭博やドレスの新調、パーティ、プチトリアノンの建設、贅沢な暮らしにあけくれていた。これといってせねばならないことはない。政治の才能もない。女王でいること、オーストリアから嫁ぐことが彼女の仕事だったから。宮廷で時間をいかに潰すかが彼女の命題なのだ。

先進国の人間は暇で暇でしょうがない。なぜなら、社会保障制度も整っていて、仕事や環境を選ばなければ生きてゆくことのできるこの国では、エネルギーの使い方を選べない人間は部屋にとじこもっていればよいという結論に達してしまう。
生存の危機なんて感じていない。だから、したいことも定まらない。戦時下なら国からエネルギーの矛先を与えられたり、革命期なら思想にかぶれて流れにのる。時代が意義を与えてくれる。しかし、今の世の中は自由だと叫ぶばかりで、何も目標を与えてくれないし、その目標に対して絶対に正しいという自信がない。明日には意味のないものになっているかもしれない。つまり平和なのである。そうするとエネルギーは体中にたまってしまう。

空回りこそ青春だが、もはや回ってもいないのである。まわすことがむなしくてただとじこもってぼーーーっとする。
そして片一方では妙な事件を起こす子供がでてくる。
皆、エネルギーの矛先がさだまらない。


坂本竜馬は日本を変えた。彼は別に「日本のため」とかそんなことを考えていたのではないと思う。口ではそうい言っていたかもしれないが、彼の夢は最期までただひとつである。

「海」

世界中を海で渡り自由に飛び回る。それを実現するためにはまず、鎖国を続ける幕府が邪魔。その幕府を倒したモデルケースを彼は西洋から学んだのである。それがたまたま、世の中の流れと合流できた。新しい時代を作る時期にさしかかっていたから。
一介の郷士が船長になるにはそれくらい大胆な発想と行動が必要だったのである。
残念ながら、船長にはなれたが、世界中の海を渡ることはできなかった。彼にしてみれば無念。日本にしてみれば、十分な国家土台を築いてくれた。

高級官僚も高額の給料も名誉も、全ては体に埋め込まれたメタファーである。竜馬にとってそれはどうでもよいことなのだ。彼は単に「船」がすきなのだから。ただそのためにはお金がかかったり、環境を整えたりしなくてはならなかった。
(彼が無欲だなんてとんでもない、むjしろ私利私欲の固まりなのである。)

これが彼のエネルギーの矛先であったのだと思う。

人間にはそれぞれ個人差ほとんどないくらいのエネルギーが秘められている。
要はそれをどこに向かわせるかが問題になってくる。
向かう場所がはっきりしていて迷いがなく、また、時代の流れと合流していると、大きなことを為せるだろう。「迷いがない」というのが何よりのポイントになってくる。若いということは経験浅く、視野も狭い、つまり不安定でものごとの見当がつけられないということ。しかもただ「迷わない」ではダメ。時代の流れを的確に読み、自分のしたいことをどう生かし、意義を持たせるかがポイントになってくる。

「社会にしたいことがそのまま職業として用意されているわけない」(「サプリ 3巻」おかざき真理)のだ。

このへん、竜馬はうまい。司馬遼太郎もそう語っている。自分のしたいことをするにはその「したいこと」を世の中が必要としている形に近づける必要がある。用意され与えられたものではなく、自力で道を拓く。そのエネルギーと知恵こそ竜馬の武器だったのだろうと思う。
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