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のだめが泣くシーンで泣いてしまった。
シュトレーゼンマンの戸惑った表情がぐっときますね。
あのシーンの作りはうまい。

オクレール先生やシュトレーゼマンの言うことが今だからよくわかったりする。なんか、音楽の世界もデザインとにているなぁ・・・。

作曲家や技法の研究をして一本スジ通った自分なりのコンセプトをたてて演奏につなげていく。楽譜からの解釈はイロイロだし、コンセプトの建て方も人によって違うから楽譜が同じでもそれが個性になるのがクラシック。
のだめの場合、楽譜でなく音を聞いてもろに気持ちだけで作曲家の意図を察知するからスジが曖昧で感覚的。だからすぐに本筋外れて異様にアクの強い演奏になる。逆に千秋は子供の頃からそういう家に生まれて理詰めで音楽をする癖とバランス感覚をもっているからのだめと組むと面白いというわけだ。

結局、のだめがやろうとしていたことはRuiでもできちゃうような程度でそれ以上のものを初めて要求される。で、どうしたらいいかわからなくて逃げ出そうとしてしまったわけだ。「私でなくてもいいじゃない」って。
すごい今の自分とかぶったかも。

千秋の考えてることも所詮「その程度」だったりして、まだまだ想像の範囲なんか超えてない。コンマスの言うとおり、そのときベストの演奏をしてそれを超えるしかないってわけだ。

「そもそもあいつが想像の範囲で収まったことなんかないんだから」

のだめはまだ、自分で考える楽しさが完全に理解できてないから自分の音楽に集中できなかったりする。でもちょっとづつ気がついてきてるけど。

今下手にコンクールに出て入賞しても底が知れている。本人が音楽を心から面白いと思えないとあっという間につぶれてしまうだろうというのが多分、オクレール先生の考えなんじゃないかな。楽譜を読んで探求することが面白いと思えなければ、クラシックは楽しめないから。

デザインも一本スジを通すこと、アイデアを探求すること、そいういうもろもろのことが三年目にしてやっと面白いと思えるようになってきたなぁ。すぱっとできるようになったらもっと面白いんだろうけどねぇ。悩み多き年頃?
それがわかる分、のだめより一歩リードしてる感が・・・(笑)

一本スジ通すやり方というかそういうの、早く自分も身に付けたいと思う今日この頃。初めてのだめに共感したかも。(今まではただの笑えるクラシック漫画だったのにね)
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ここにきて、物語全体を振り返ると作品の意味がなんとなく見えてきた気がする。六花はなぜバレリーナになれるのか。

●才能は生まれる場所に生まれること
運も才能のうちとよくいうが、運こそ才能そのものなのだ。バレエのみの話ではない。本人の苦労や能力以上のものの力が作用している。

六花は姉の千花に比べて気力ない、能力も明らかに劣る、確実に劣勢の子供だった。おまけにバレリーナとして欠点を抱えていて、小学生のうちにもうなれないであろうといわれていた。にも関わらず、千花は怪我を繰り返し不運が重なり重圧に耐えかねて自殺。
六花のクラスに転校してきた天才的才能を持つ空美は自宅の経済状況からバレエを続けることは困難だったし、親は彼女の才能に興味が無い。(第二部で登場する可能性もなきにしもあらずだが、登場してしまったら面白くないかも)
ひとみは上手にバレエを踊ることもできるし才能も家庭環境も揃っているが体型がバレエに適していなかったため無理なダイエットで体調も精神もバランスを崩してしまいバレエをやめることとなる。
桜子は受験前に自分の適性に限界を感じて辞める。

おそらく、次は茜だ。強気で能力あるし体型もバレエ体型。家庭にも問題なさそう。だけど、最後のチャンスになるローザンヌ前に体調を崩している。この子も消えることになるかもしれない。

テレプシコーラが並みの少女漫画と一線を引いているのは主人公がライバルと戦って勝ち進んでいくとかいう話でない点だ。成功者の才能というものを長い時間をかけて冷静に浮き彫りにしていっている。そこに教育者の視点が入っていたりして面白いのだ。

才能とは生まれるべき場所に生まれ、受けるべき運命を受けることなのだ。

例えば、アフリカのナイジェリアあたりに相撲の才能がある人が生まれたとしよう。その人はどうやって相撲を知ることができるだろうか?テレビも衛星放送もない場所に生まれたら一生、相撲など見ないだろう。
これは極端な話だけど、つまりそういうことなのだ。

空美は覆せないほど貧乏な家に生まれた。この時点で彼女は能力はあるのだろうが、才能はないのだ。言ってしまえば運である。
千花は靭帯を損傷した時点で才能がないし、ひとみはその体型に生まれてしまったことが才能がないことになる。一見、才能のある子がどんどんこうして消えていく。一見、最も才能がないと見られていた六花は生き残っている。天命は彼女に下っている。股関節のソケットが深いため開脚が完全にできない不完全な体型に生まれ、性格的にも全く期待できない子供であったにも関わらず、気がつけばローザンヌ本選に残っていたり。成功者になる才能だけを持っている気がする。

才能がないというのは一種の運命的なものであって、能力がないこととは違うから、悲観せず、運命を受け入れて欲しいとこの作品はそんな意味にもとれるのだ。
うちの担当の先生が読んだら(多分読んでる)きっと見習えっていいそうな内容でした。作者の自叙伝です。漫画という形式をとったエッセイだと思ったので本のカテゴリーに入れました。(「シュナの旅」もここに入ってることだし。)
個人的にアーティストの自叙伝に弱い・・・GLAYの「pure soul」とか。いや、でも素直な言葉で語れている自叙伝じゃないとはなにつくだけだけど。

ある一定の場所にたどり着くことを悟るっていうけど、そういう言葉って誰でも同じところにたどり着くから似通ってるものになる。でも、似通ったありきたりな言葉ほど、経験豊かな人からでてくるのではないかと思った。人と違う言葉を探して、人とは違う自分を探して、特別な自分を探して・・・それはまだ何も見つかっていない人がすることなんだと思った。見つかった人は見つかってそれに自信があるから、堂々とありきたりな言葉を言うことが出来るんだと思う。
つまり、何を自分が言っても決して自分のオリジナリティを損なわない確固たる基盤があるから、言葉がありきたりでもありきたりにならないし、実際それは自分の心からダイレクトに出てきた言葉なんだと思う。だからそういう経験に裏付けられた言葉はたくさんの人の心を捉えるんだと思う。

「みんながみんな自分だけはちがうんだと
顔をあわせればウソばかりついていた。
みっともない青春はあっとゆう間で、
気がついたら22歳になっていた。」

最近、ハチクロやら何やら読んで大人が語る青春の正体が少しずつ見えてきた気がします。みんながみんな同じようなこたえを「ありきたりな言葉ですが・・・」と語る中で違う言葉を探して、違う自分を探して、見つからなくて本当はこれっぽっちもなくて、特別な人間になりたくてもがいている状態。これを大人は“青春”ってよんでる。自分がどれほど子供だったかを知った時、子供は大人になる。
一番好きなのは
「一番得意なタッチなんてない」
って凹むシーン。わかるわかると頷いてしまう。そして、ちょっとよかったって思う。私も得意なタッチってなくってこんなのどうかなって程度で色々描いて、作って・・・今プロで食べている人にもそういう時代があったんだと思うとほっとする。

ことわざに似ている言葉、慣用句のような言葉、実体験につながることは多い。そういえばこの間はトリビアの種で “一番ウソなことわざ”を調査してたな。優勝は「石の上にも三年」。年配の方々は“三年くらいじゃねぇ~。短いわよ。” と口々に。なるほどね。
でも私が思うに、このことわざは短いところにも意味があるんだと思う。 “まず三年頑張ってみましょう”っていう数字なんだと思う。三年以内に見切りって大体つくじゃない?そんでやっていけるって思ったらいいけど、それなりに見切りがついたらついたで次にいかないと、実際問題生きていけないし。確かに大成するのって時間かかるけれど、ある程度その職業なり、環境なりが自分にあっていることいないことを確かめることも必要。粘ってもしょうがないことってある。でも粘らなきゃいけない時もある。だから三年なんじゃないかなって思います。
で、本当に大成するならそっからが本番。本当に長い道のりになると思う。でも、多分最初の三年で自分がその石の上で生きていくことを確信しているから、そこから先は“ただじっと座る”だけではなくなるんだろうな。
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