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●エネルギーの矛先
司馬遼太郎の経験からなのか、それともこれはやはり古今東西一般的にそういうものなのかもしれないが、若いっていうことはエネルギーがありあまってるってことだ。あふれだすエネルギーを制御しきれないのも若さ故。

作品には幕末に勤王派活動をする若者が何人も出てくるが、思想や自分のしたいことをはっきりと描き出している竜馬や中岡、高杉、桂、西郷など革命の中心人物たちはともかく、うやむやなまま、自分のよりどころがほしいために何かを信じずにはいられない盲目的な人間が多数登場する。そういった輩は礎の一部として死んでいく。歴史にその名を残すことなく、時がたてば誰かの心からも消えてしまうような危うい存在。

竜馬の姉、乙女の手紙に対して司馬遼太郎は「自家中毒」という言葉で彼女の状況を説明した。私には妙にこの言葉がしっくりきた。このひとことで色々なことに説明がつく気がしたから。

乙女は男勝りで才能に恵まれた教養人だったが、ひきかえに女仕事は苦手だった。この、女性が家にいる以外選択の余地のない時代に、彼女の才能は家の中では使い物にならなかったのだ。しかし、彼女には男勝りのエネルギーがある。その能力を使わずにいるため、ストレスになっているのだという分析をしていた。要は暇なのである。

ふっ・・・・といろいろなことが思い浮かんだ。

あぁ、これって今の時代と同じだなと。
幕末の時代、エネルギーの矛先は革命だった。若者は明確な思想を持つことが良しとされ理想だった。“思想がない”ことが“たしなみのない”ことだったので各人、口先だけでも何かもっていなければならない雰囲気があった。
これは今の時代もかわらない。“自分があること”がアイデンティティの不安定な若者の理想像なのである。無理に安定させようとしたり安定しているふりをする。さも、自分の道が正しく、意義あることのようにふるまう。そうすることで何とか表現しようのない不安定感から逃げようとする。
その上エネルギーばかりありあまっているので大して意義がなくともエネルギー発散のためにがむしゃらに駆け出さずにはいられない。がむしゃらならまだよい、下手に悩めば自家中毒をおこすから。

ふっとニートのことを考えた。

むかしフランス王妃マリー・アントワネットは言った。
「私は退屈することが怖いのです」
と。
彼女は浪費家で賭博やドレスの新調、パーティ、プチトリアノンの建設、贅沢な暮らしにあけくれていた。これといってせねばならないことはない。政治の才能もない。女王でいること、オーストリアから嫁ぐことが彼女の仕事だったから。宮廷で時間をいかに潰すかが彼女の命題なのだ。

先進国の人間は暇で暇でしょうがない。なぜなら、社会保障制度も整っていて、仕事や環境を選ばなければ生きてゆくことのできるこの国では、エネルギーの使い方を選べない人間は部屋にとじこもっていればよいという結論に達してしまう。
生存の危機なんて感じていない。だから、したいことも定まらない。戦時下なら国からエネルギーの矛先を与えられたり、革命期なら思想にかぶれて流れにのる。時代が意義を与えてくれる。しかし、今の世の中は自由だと叫ぶばかりで、何も目標を与えてくれないし、その目標に対して絶対に正しいという自信がない。明日には意味のないものになっているかもしれない。つまり平和なのである。そうするとエネルギーは体中にたまってしまう。

空回りこそ青春だが、もはや回ってもいないのである。まわすことがむなしくてただとじこもってぼーーーっとする。
そして片一方では妙な事件を起こす子供がでてくる。
皆、エネルギーの矛先がさだまらない。


坂本竜馬は日本を変えた。彼は別に「日本のため」とかそんなことを考えていたのではないと思う。口ではそうい言っていたかもしれないが、彼の夢は最期までただひとつである。

「海」

世界中を海で渡り自由に飛び回る。それを実現するためにはまず、鎖国を続ける幕府が邪魔。その幕府を倒したモデルケースを彼は西洋から学んだのである。それがたまたま、世の中の流れと合流できた。新しい時代を作る時期にさしかかっていたから。
一介の郷士が船長になるにはそれくらい大胆な発想と行動が必要だったのである。
残念ながら、船長にはなれたが、世界中の海を渡ることはできなかった。彼にしてみれば無念。日本にしてみれば、十分な国家土台を築いてくれた。

高級官僚も高額の給料も名誉も、全ては体に埋め込まれたメタファーである。竜馬にとってそれはどうでもよいことなのだ。彼は単に「船」がすきなのだから。ただそのためにはお金がかかったり、環境を整えたりしなくてはならなかった。
(彼が無欲だなんてとんでもない、むjしろ私利私欲の固まりなのである。)

これが彼のエネルギーの矛先であったのだと思う。

人間にはそれぞれ個人差ほとんどないくらいのエネルギーが秘められている。
要はそれをどこに向かわせるかが問題になってくる。
向かう場所がはっきりしていて迷いがなく、また、時代の流れと合流していると、大きなことを為せるだろう。「迷いがない」というのが何よりのポイントになってくる。若いということは経験浅く、視野も狭い、つまり不安定でものごとの見当がつけられないということ。しかもただ「迷わない」ではダメ。時代の流れを的確に読み、自分のしたいことをどう生かし、意義を持たせるかがポイントになってくる。

「社会にしたいことがそのまま職業として用意されているわけない」(「サプリ 3巻」おかざき真理)のだ。

このへん、竜馬はうまい。司馬遼太郎もそう語っている。自分のしたいことをするにはその「したいこと」を世の中が必要としている形に近づける必要がある。用意され与えられたものではなく、自力で道を拓く。そのエネルギーと知恵こそ竜馬の武器だったのだろうと思う。
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あっさり読み終わり。
軽い内容なのでらくらく読める。


主人公が心の中で物事にネームをつけていく。このへんの思いつき、引っ張り方がやっぱし元コピーライターなんだなという感じ。
「資本主義の不思議」とか。ぜんぜん主人公のバックグラウンドらしくないのだけど、このへんの思考が軽快でおもしろい。「えっ?!」と思うようなネーミングが時々あるあたりに・・・あぁ、広告業界出身なのね・・・という印象が強くなる。
司馬遼太郎がジャーナリスト風小説ならこっちはコピーライター風。
“頭が良いということは誰かにとって都合が良いということだけで、それ以上の意味はない”

あぁ、きっとそうだな。

この世の中に絶対のものなんてなくて、どんなに強そうに見える盾を持ったところで、世界の価値観が変わってしまったら何の役にも立たない。バカなのは、いまある自分の盾を過信してしまうことなのだ。

日本にはこの100年の間に少なくとも二回の突然の転換がおきた。ちょうどそれは、一世代につき一度の確立であると思う。
一度目は第二次世界大戦の敗北。ある日を境にして神と崇め、盾としてきた国家が突然消えてしまった瞬間。
二度目はバブル崩壊。ある年を境にして、仕事、能力の価値観が一転してしまった。

そのたびに、あたらしく盾をつくることを強いられてきた。


私が思うに、キジマは団塊周辺の世代。日本の戦後復興の中で第二次産業に従事し、急激な経済成長に貢献。しかし、「復興」時代にしか通用しないやり方でしか仕事ができず、過渡期に失職する・・・・・
対し、コジマはバブル後の世代。子供時代に親世代のバブル崩壊やリストラを目の当たりにし、卒業直後に就職難に悩まされてきていて大企業の名前や安定した収入の職業より専門性の高い“手に職”的職業にこだわる。働いて楽しい楽しくないが基準のため、すぐ辞めたり青い鳥を探したり、好きなことがみつからないとひきこもったり・・・・・

私たちの世代はまだ、盾の崩壊に立ち会ってはいない。
専門性が高ければそれに対して需要が必ず発生するということではないので、闇雲に手に職と思い込み、崩壊寸前の盾(技術)なんて身につけても生き残れない。だけど、時代がどう動くかなんて少しの予想はできるけれど、どの業界だって不確実な要素はいくらでも含んでいる。今という現実は偶然の産物なのだから。
無常。価値観は流転する。いつか盾は崩壊する。まったく違う価値観に対処することを強いられたとき、私はどうするのだろうか。

専門性の高い技術をもつことで手に職をつけて手堅い盾を手に入れようと思っていた。でもそれは良く考えると甘い。何にでも対処できる絶対確実の盾なんてこの世にはないのだ。大切なのは自分の盾を知ること。
改めて、自分の考え方の危うさに気付かされた。そんな一冊。
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