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やっと旅が終わりました。
長かった。


世界三大ファンタジーのうち読んだのは二つ目ですが、やはりハリポタは絶対にこの二つに届くことはないですね。おもしろい世界が広がってるファンタジーなら子供向けも大人向けもいくらでもあります。ただ、あまりにも現実世界のように描いてしまう物語ってそうそうないですね。

トールキン本人の言うとおり、これはあくまで事実を追ったストーリーであって作者がなにかしらの意図を持って作品世界を動かしたものではないんです。ゴクリはゴクリ、フロドはフロドの運命がそこに本当に存在したんです。なぜか。フロドとか馳男とかサムとかサウロンとかアルウェン、エオィン、すべての登場人物を創作初期の段階で確立していたからだと思います。あとは勝手に架空の人間が動いたのです。

ただ、世界大戦の影は否定しようないほどに作品世界に影響を与えていると思います。サルマンは象徴的だし、サウロンの国は明らかに戦場です。戦場に立ったことがないと描けないのではと思えるような場所です。

この作品が書かれていた頃、サルマンのようなカリスマが歴史の舞台に登場し演説で人々を死の方向へと導いていました。アメリカ合衆国ではソ連との開発競争に躍起になった科学者たちが大勢の人を一瞬で殺せる原爆、作品世界では指輪にあたるものを開発していました。

確かに作者の言う通り、もし現実に即した物語であれば、サルマンは自力で研究し一つの指輪(サウロンの指輪)のレプリカを作っていたことになるでしょう。

指輪は人間の暗い部分そのものだと映画の方のレビューで書きましたが、その点に関して特に原作と変わりはないと思います。人は皆、自分という領土を納める唯一無二の君主です。だけど、うまく納められない人って多い。誰もが心に一つの指輪を持っています。サウロンは誰の心にもいるのです。ただ、自分の意志というものをはっきりと持っている人はサウロンの支配を受けない。

ホビットが暗黒の指輪に対して強くいれるのは、大切なものの順番を間違えないからではないかと。彼らが大事にしているのは豊かな農村であり誰もが当たり前のように得られる家族や友達との幸福な時間。食べることが好きでおしゃべりもうわさ話も好き。のんびりと暮らしていける喜びを知っている。今が好きで楽しいのだ。それで村からはでないし、だからあまり知られていない種族だったりする。欲はある。だけど、欲の質が違う。

まず、何が大切でそのためには何が必要で、何をしなければならないか。

“何が大切か”という部分を人間はすぐ忘れてしまう生き物だ。暗黒の指輪は自分にとって大切なものを忘れさせ、達成したいと思っていることだけに執着させてしまう。気がつくと本末転倒している。

もし、暗黒の指輪がホビット以外の人間にでも渡っていたらもう一つのサウロンが現れ戦争は半永久的に続いただろう。

生きた物語の中で指輪の処分についてフロドが決めたことはまさに、日本の憲法9条のような内容だった。第一次世界大戦当時にかかれたこの物語に第二次大戦後に作られた、世界の反省文がでてきたのは驚きだった。

サウロンと同じ方法でサウロンと戦えば、必ずもう一つのサウロンを生み、それでは意味がない・・・と。

ラストのフロドも現実的だった。“みんなが与えられて当然の幸福を与えられるために誰かの人生が犠牲にならなければならなかったのだよ”と、そしてそれが“自分だった”とサムにフロドは話す。みんな幸福に、永遠に幸せに暮らしましたなんていうハッピーエンドはこの物語のラストとして現実的ではない。
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のだめが泣くシーンで泣いてしまった。
シュトレーゼンマンの戸惑った表情がぐっときますね。
あのシーンの作りはうまい。

オクレール先生やシュトレーゼマンの言うことが今だからよくわかったりする。なんか、音楽の世界もデザインとにているなぁ・・・。

作曲家や技法の研究をして一本スジ通った自分なりのコンセプトをたてて演奏につなげていく。楽譜からの解釈はイロイロだし、コンセプトの建て方も人によって違うから楽譜が同じでもそれが個性になるのがクラシック。
のだめの場合、楽譜でなく音を聞いてもろに気持ちだけで作曲家の意図を察知するからスジが曖昧で感覚的。だからすぐに本筋外れて異様にアクの強い演奏になる。逆に千秋は子供の頃からそういう家に生まれて理詰めで音楽をする癖とバランス感覚をもっているからのだめと組むと面白いというわけだ。

結局、のだめがやろうとしていたことはRuiでもできちゃうような程度でそれ以上のものを初めて要求される。で、どうしたらいいかわからなくて逃げ出そうとしてしまったわけだ。「私でなくてもいいじゃない」って。
すごい今の自分とかぶったかも。

千秋の考えてることも所詮「その程度」だったりして、まだまだ想像の範囲なんか超えてない。コンマスの言うとおり、そのときベストの演奏をしてそれを超えるしかないってわけだ。

「そもそもあいつが想像の範囲で収まったことなんかないんだから」

のだめはまだ、自分で考える楽しさが完全に理解できてないから自分の音楽に集中できなかったりする。でもちょっとづつ気がついてきてるけど。

今下手にコンクールに出て入賞しても底が知れている。本人が音楽を心から面白いと思えないとあっという間につぶれてしまうだろうというのが多分、オクレール先生の考えなんじゃないかな。楽譜を読んで探求することが面白いと思えなければ、クラシックは楽しめないから。

デザインも一本スジを通すこと、アイデアを探求すること、そいういうもろもろのことが三年目にしてやっと面白いと思えるようになってきたなぁ。すぱっとできるようになったらもっと面白いんだろうけどねぇ。悩み多き年頃?
それがわかる分、のだめより一歩リードしてる感が・・・(笑)

一本スジ通すやり方というかそういうの、早く自分も身に付けたいと思う今日この頃。初めてのだめに共感したかも。(今まではただの笑えるクラシック漫画だったのにね)
ここにきて、物語全体を振り返ると作品の意味がなんとなく見えてきた気がする。六花はなぜバレリーナになれるのか。

●才能は生まれる場所に生まれること
運も才能のうちとよくいうが、運こそ才能そのものなのだ。バレエのみの話ではない。本人の苦労や能力以上のものの力が作用している。

六花は姉の千花に比べて気力ない、能力も明らかに劣る、確実に劣勢の子供だった。おまけにバレリーナとして欠点を抱えていて、小学生のうちにもうなれないであろうといわれていた。にも関わらず、千花は怪我を繰り返し不運が重なり重圧に耐えかねて自殺。
六花のクラスに転校してきた天才的才能を持つ空美は自宅の経済状況からバレエを続けることは困難だったし、親は彼女の才能に興味が無い。(第二部で登場する可能性もなきにしもあらずだが、登場してしまったら面白くないかも)
ひとみは上手にバレエを踊ることもできるし才能も家庭環境も揃っているが体型がバレエに適していなかったため無理なダイエットで体調も精神もバランスを崩してしまいバレエをやめることとなる。
桜子は受験前に自分の適性に限界を感じて辞める。

おそらく、次は茜だ。強気で能力あるし体型もバレエ体型。家庭にも問題なさそう。だけど、最後のチャンスになるローザンヌ前に体調を崩している。この子も消えることになるかもしれない。

テレプシコーラが並みの少女漫画と一線を引いているのは主人公がライバルと戦って勝ち進んでいくとかいう話でない点だ。成功者の才能というものを長い時間をかけて冷静に浮き彫りにしていっている。そこに教育者の視点が入っていたりして面白いのだ。

才能とは生まれるべき場所に生まれ、受けるべき運命を受けることなのだ。

例えば、アフリカのナイジェリアあたりに相撲の才能がある人が生まれたとしよう。その人はどうやって相撲を知ることができるだろうか?テレビも衛星放送もない場所に生まれたら一生、相撲など見ないだろう。
これは極端な話だけど、つまりそういうことなのだ。

空美は覆せないほど貧乏な家に生まれた。この時点で彼女は能力はあるのだろうが、才能はないのだ。言ってしまえば運である。
千花は靭帯を損傷した時点で才能がないし、ひとみはその体型に生まれてしまったことが才能がないことになる。一見、才能のある子がどんどんこうして消えていく。一見、最も才能がないと見られていた六花は生き残っている。天命は彼女に下っている。股関節のソケットが深いため開脚が完全にできない不完全な体型に生まれ、性格的にも全く期待できない子供であったにも関わらず、気がつけばローザンヌ本選に残っていたり。成功者になる才能だけを持っている気がする。

才能がないというのは一種の運命的なものであって、能力がないこととは違うから、悲観せず、運命を受け入れて欲しいとこの作品はそんな意味にもとれるのだ。
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